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Volume.85
【第百九十一章】それぞれの言い分
【第百九十二章】ジュリアナ

Volume.86
【第百九十三章】遅かれ早かれ
【第百九十四章】牙をむく居城
【第百九十五章】邸宅
【第百九十六章】結びついた憶測

Volume.87
【第百九十七章】アムの別名
【第百九十八章】ままならぬ恋愛
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Volume.85

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客間  初老の女性が、同じ年代の見知らぬ女性の家を2度目訪ねて来る。『そんでタイさ赴任しているお宅の息子さんから何か連絡でも有ったんだべかねぇ?』その女性は不安な面もちで、もう一人の女性に聞く。『んだ・・・。』その返事に藁をもすがる思いで飛びつく。『何だったすか?』『何ともなぁ申し上げにぐい事だけんども・・・お宅の息子さんの許嫁のタイ人のおなんごだば、昔日本で働いていたことあったんでねべがねぇ?って即座に息子が言っておりました。』『どう言う事なんだべか?』問われた方の女性はそれ以上の詳しい事を話さず言葉を濁した。それから2週間後再びその初老の女性が菓子折を持って、同じ家を訪ねて来た。『この間は、まごとに有り難うございました。わだしにもなんとがぁ・・・事の次第がわがりました。息子さぁこの前お宅さんから言われた事を尋ねてみました。したら息子がやっと白状しました・・・。』一方の女性は同じ年代の息子をタイに持つ母親としてその女性を憐れみいたわる。『結婚されでもねぇ、日本さ来ておがさんの顔を拝む事すらできねぇしなぁ。ましてや、めんこい孫が生まれてもおがさんがバンコクに行かねば抱くこともできねんだすな。』ある日本の片田舎で交わされている母達の会話だ。日本再入国不可の烙印を押されたタイ人女性と、恋に落ちた息子の母親の背負わなければならない宿命だ。その初老の女は聞きづらそうにもう一言、勇気を振り絞って口にする。『どうにがぁ息子さ諦めさせる手立てだばねべが・・・。』『んだなぁ・・・わだしもあの時息子さ直ぐ聞いたんだぁ。わだしもお宅さんと同じ境遇になるがもしれね母親だもの。』問いかけた方の母親の顔が一瞬希望に満ちた顔になる。『止める事だば出来ねぇ。結婚でも子供でも作らせでも、なぁんも心配する事はねぇんだ。んだけどもな、籍だけは決して入れさせてはならねぇって、それだけは守ってけれって言っていただよ。』再び狐につままれた様な面もちで、その女性は言葉を必死に理解しようとする。いとも簡単な冷酷な答なのだが、田舎の年老いた母親達には察しが付くには遙かほど遠い。



【第百九十一章】それぞれの言い分

「そんなんじゃ無いわよ。私には彼は全く興味無いわ。前に貴方に言ったでしょ?」
 滝澤は余裕の微笑みを浮かべそう言うプロイを見据えている。真剣な顔をしたプロイは引き下がらない。子供をあしらうような滝澤のその柔和な表情が、プロイをもっとむきにさせた。滝澤の手を取り自分の腹部に導き、女としての柔らかさを、滝澤に存分に触れさせていた。プロイは小さな声で、
「私が芝居を打っているのはオーガスタの全員の女性に対してで、安田さんに対してじゃないわ。特に・・・・ユイに対してね。」
 最後の言葉は二人以外の誰にも聞こえないように、慎重すぎるほど小さくささやいた。
「そこまでユイも安田さんも他の女性達も馬鹿にしたもんじゃ無いんじゃないか。日本人の客達は欺けても彼女たちは騙せない。君が主導権をとって僕の手と体を操っているなんて事は、一目瞭然で見抜かれるさ。自分でしょっちゅうやっている人間たちは、他人がそうやっているのは、よーく分かる筈だからね。あっちの客とそっちの客に、僕が君を襲っているかのように見せかけることで、ジェラシーを植え付ける。それなら効果抜群だ。ただもう一演技必要だ。僕から抱かれている振りをする君は、僕の肩口の後ろで彼ら達に見られる顔は、恍惚の表情をしてはいけない。必要以上にしらけた顔を作るなければいけないんだ・・・。ごめん・・・釈迦に説法か・・・。でもね、そう言う演出も君がそれをやればやるほど、君にそのつもりは無くても、他の女性からは安田さんに対する当てこすりにとられるぞ。君もそれを分からない程馬鹿じゃないと思うが。見て見ろ。」
 そう言ってユイの方を滝澤はにっこりと微笑みを作って視線を送る。プロイもその視線の先を笑顔で追う。その時、滝澤はプロイのしたたかさをしっかりと見極めた。プロイがユイに笑顔を作って送るシチュエーションではない。がしかし滝澤がユイを差し示していると勘づくのと同時に笑顔を浮かべる。まるで3メートル離れているユイに滝澤と共に視線を当てるときには、笑顔でなければならないとの二人の申し合わせが出来ているかのように。離れた相手を真剣に見つめると、相手に何かよからぬ事を話し話題にされていると詮索される。が笑顔だとそれが許される。プロイは軽く視線をユイに向けただけで即座に滝澤の方に顔を向けるべく首を返す。そのときには見事なまでに既に冷たい表情に戻っていた。
「ユイなんて余裕しゃくしゃくだぞ。きみがユイに当てつけていると思っているんだったら、大間違いだ。」
 この言葉にプロイはキッとした表情を浮かべる。もともとの美形の顔が、さらに引き締まり、改めて凍り付くような臨場感を見る者に与える。美しい顔の女は喜怒哀楽すべてがさまになる。不公平極まりないと滝澤は瞬間的に目を奪われる自分にそう言い聞かせる。
「滝澤君。ユイだぞ。噂をすれば影だ、何とここにご本人様の登場だ。俺達があの金額が高いだの安いだの、どういう意味だのこうだの言っているより当の本人に聞いた方が一番てっとり早い。」
 安田がそうタイ語で話しかけてくる。ユイはニコニコしながら何の話をしているのかと言う風に、安田と滝澤を交互に視線を分けて送っていた。男から視線を釘付けにされることに慣れているユイは、滝澤と安田の視線にも美しく耐えている。先ほどプロイを美しいと目をしばし奪われたその舌の根も乾かぬ内に、今度はユイのまたタイプの違った美貌に滝澤の脳は刺激を受けているのが、滝澤自身でもわかった。
 滝澤が言葉を返さないのを重々知っているかのように、安田は適当な所で沈黙を破って話を続ける。
「君は伊沢副支店長と契約を結ぶ際に、副支店長から8万バーツをオファーされたと言う。それを未だ君は受けていないとも聞く。事の真相はどう言うものなんだ?」
明細 オーガスタNo.1ホステスユイも、さすがにその単刀直入すぎる、ぶっきらぼうな安田の言葉に色めき立つ。
「誰がそんな事を?!」
「小耳に挟んだだけだよ。伊沢副支店長は痛く君のことをお気に入りのようで、多くの人間に話をし回っておられるようだ。うちの会社で知っている人間は少なくはないぞ。」
 安田は沈着冷静に言う。
「まったく、チャバー(馬鹿みたい)!何が8万よ。何がお断りよ。そんな話は根も葉もない話だわ。ばかばかしい。」
 ユイは語気を荒げ吐き捨てるように放った。
「そんな事言っていいのか?伊沢さんは君の大切な大のお得意様なんじゃないのか?君がこの店でNo.1を保てている礎になっている大切な人なんじゃないのか?僕ら4人を前で、伊沢さんの事をそう切り捨てていいのか?」
 ユイが二の句が告げらずに安田から言いこめられていた。
「安田さん・・・何を言ってるの?失礼じゃない?相変わらずね、貴方の性格、変わっていないのね・・・。公の場所でそう言う人のプライベートな部分を平気で言う・・・ちょっとおかしいわ。もしピーユイ(ユイお姉さん)にそう言う事実があっても、貴方からそう言われて実はそうなんですだなんて、ピーユイが言うとでも思ってるの?」
 プロイの物言いは安田に辛辣だった。かつては愛し合った間柄であろう二人は、現在どんな関係に有るのか誰にも定かではなかった。愛すが故に憎しみが募るのか、愛の残り香は微塵もなく、もうとっくに醒めてしまっているのか。二人のみしか事の真相を知るすべもない。
「ちょっとプロイ?その言いぐさはなんて言いぐさ?」
 意表を突いてユイの刺々しい言葉の矛先が今度はプロイに向かった。加藤や川口のホステス達は、オーガスタのNo.1とNo.2の諍いに、もとより関わりたくないと言う風情でひたすら黙り観察を決め込んでいる。自分はユイを助けるために言っているのだとの無実の表情をプロイはユイに向ける。
「それで私をかばっている気?それって・・・私を仕切っているって事?」
 この言葉を耳にして機敏に安田は滝澤に流し目を送る。滝澤は軽くうなずいて、プロイを今度は滝澤の自らの力で抱き寄せた。嫌々をするように体を引いて逃げようとするプロイを男の力でねじ伏せ、滝澤は顔をプロイの肩口に埋めてゆく。誰が見ても滝澤がプロイの頬に唇をあてにいっているとしか見えない仕草だ。プロイのたばこの臭いが染みついた髪の毛の臭いが滝澤の鼻をつく。いきなりの滝澤の行為に、女性としての自然反射で防御の姿勢をとり体を構え固くするが、その力をある時点で柔らかく全解除する。滝澤の腕の中でプロイのか細い体と首筋は、滝澤の思うがままの適度に重みのある女の肉体と化す。滝澤の冷たい唇が、プロイの幅広く解放されている肩口に勢い余って触れられた。プロイの口元から声にならない小さなため息が思わず漏れる。
「滝澤さん。やめて頂戴。」
 ユイはプロイをすっぽりと抱きかかえた滝澤に毅然とした声で指図した。滝澤のみならずプロイもその声に動きをぴたっと止め、次の言葉を聞き取ろうとするかのように待つ。滝澤がその声からしばらくしてプロイから身を起こす。今度はプロイのか細い両手が滝澤の首元に絡みつき、体が離れてゆく滝澤を引き戻そうと少し力が入る。
「伊沢さんの8万?・・・確かに・・・あの人は私にとっては重要なお客様です。でもお客様それ以上の人では有りません。」
 聞き飽きたせりふだと滝澤は瞬間的に思った。と同時に安田が反応する。ユイの顔を見ずに対面のソファーに座る女と目が合っている。新人の女性達で安田の過去を知らない女達は、そうやって周りの客に視線を飛ばして観察する。昔はそれでも先輩のNo.1のユイに対して遠慮等があって、他の女の客にそう言う視線を送ったりは出来なかった。がしかしこの業界でも確実に新しい波が起きあがってきていた。昨日今日入った新人は、先輩を先輩とも思わない。チーママをチーママとも思わない同業だと感じて何の疑いもない。
「面白いもんだ、皆そう言う。建前論をな。笑わせてくれるぜ、反吐がでる。」
 滝澤達のソファーに沈黙が流れる。誰かが沈黙を破るのだが、その間合いは不思議と心地良い沈黙だと滝澤には感じられた。安田が続けるとよりドラスティックな内容に入ってゆく。ユイが続けると本音を話すか、引き続きおざなりの表面論を貫き通すかの両極端に分かれる、プロイは先ほどのユイの発言で絶対に口出しはしない。滝澤とて発言をする場面ではない。加藤・川口は部外者だ。川口が変に気を遣って妙な事を言い出す可能性はある、彼らについたホステスは、口が裂けても発言はしない。そう言う読みをしている最中の滝澤の、どの読みの可能性のない人間から、これまた突拍子もない話題で話しかけられた。
「滝澤・・・俺の所の石田だがな・・・。覚えてるか?あの石田だ。」
 加藤が突然滝澤に額を寄せながら話しかけてきた。
「ああ、あの本社から新しく送られて来た彼・・・JuJuに一緒に行ってくれたか?」
「そうそうあいつ。お前にお互いの領分を守らないととんでもない火傷をする事になりますって、言った純真無垢のあいつがな・・・お前に頼みがあるんだとよ。ラマ9通りのマッサージパーラー(ソープ)の女にやっこさん熱を上げてな。その女の真意を聞きたいんだそうだ。だけどあいつもまだタイ語が達者じゃない。それにあいつ本人が登場しているうちは、女だって本当の事を言わない。ましてソープの仕事だからな。十分騙される可能性がある。だから第三者に登場してもらって、その女の本意を聞きたいんだってよ。」
「ソープの女から騙される可能性があるって思うようになっただけでも、大した成長じゃないか。一般の男達はそんな風には取らないで舞い上がるだけだけどな、俺みたいに・・・。でどうして俺に?」
「うちの会社で格調高いタイ語を何不自由なく駆使出来る日本人と言ったら、お前しかいない。タイ人従業員も皆そう言うぜ。うちらの企業のようにタイの一流大学出身者しか採用していない企業ではな、タイ人達は日本人のタイ語を完全に疑いの目で見ている。下手にタイ語が話せてもそれがタニヤ大学の修士課程であると一発で見抜くからな。『タイ語上手ですね』っていう誉め言葉も、こういう場所では真に受けていいが、会社なんかでは見下されていますの裏返しだ。日本人は皆、夜な夜なこういう場所で女のケツを触って女をたらし込むってイメージしかないもんな、奴らには。また事実そう言う部分が多かれ少なかれ当たってもいる。それどころかバンコクチョンガーに対しては、かなりの確率で正解だろう。自分がタイ語を話せると思っている奴ほど馬鹿な奴はいない。饒舌に話していい気分になっているが、実はそれを日本語で自分が聞いたら、穴があったら入りたい位のお恥ずかしい限りの日本語だったりするって事を、何の疑いすら抱かないで使っているんだな。その点お前のタイ語は折り紙付きだ。会社のどのタイ人も言うぜ。石田にしてもそんなお前に物事を頼みたい。だが部署が違うお前に、しかも先輩のお前に頼めない。だから同期の俺の所に言って来るってお話だ。俺は言ってやった、『おめえ本当に滝澤でいいのか?おめえのその女、いい女だったら滝澤にかっさらわれるぞ』って。」
 この加藤の話しに十分参加できる川口が、ケッケッと思わず品のない笑いを声に出す。そして慌てて真顔を作り直す。
「俺に出来ることなら・・・。要はそのマッサージパーラー(ソープ)に俺が行って、石田のその女にあって、石田の存在とは関係のない所で俺がその女を洗えばいいって事だな。」
「そうそう、もう何も言わなくてもお前の事だから万事石田の思い通りの事をやってくれるだろう。場所はジュリアナって店で、番号は50番(注.この番号はフィクションです。当該人の番号ではありませんのでご注意下さい)。」
「わかった・・・行って見ることにする。そんなに入れ込んでいるのか?」
 加藤は大きくうなずいた。滝澤は成田の申し出を快く受けた。本社から出てきたばかりの社員が、まずはマッサージパーラー(ソープ)からスタートする。人に頼んでまで女の貞操を計ろうとし、その女に熱を上げる。毎日男に体を売る女に愚かにもその貞操を探ると言う。貞操の定義がおぼつかなくなる。しかし滝澤の中では自分とオイとの物語がそのまま二重写しになる。皆が通る道だ、滝澤は自分の気持ちの中でそうささやいた。とともにそう言う部分は探って、決していい結果にはならないと言う感覚も明確にあった。
「あ。それとその女の代金は石田が出すって。でもその女と上に上がっていっても絶対にやらないで欲しいとよ。あの馬鹿が。」
 加藤は投げやりに言う。
「面白いもんですね。毎日他の男に・・・日本人を含め・・・体を売るのが商売なのに、滝澤さんには抱くなと・・・い~や~・・・微妙な男の心ですねこりゃ。」
 川口がはやりながらそう言う。
「ばーか、おめえも馬鹿野郎だ。石田の側からばっかり物事を考えるからそう言う事になる。滝澤の方から考えてみろ。石田と精通している女を誰が抱きたいと思うか・・・。でも・・・・う~ん・・・おかしいな。本当に。人間ってのは。石田と言う滝澤にとって顔を知っていると言うだけの人間が、滝澤と言う石田にとって顔をしっていると言うだけの人間がいるだけで、遠慮したくなる・・・これって何なんだろうな。説明つかないな・・・。」
「加藤さんそれだけじゃないっすよ。その逆手もあるんじゃないすか?例えばあいつの女だとわかっているから燃える。あの男の腕に抱かれたのかと思うと嫉妬でなおさら狂おしくその女を抱く。あの男の物だと思っているからこそ、その男の知らないところで密通を交わすと優越感を感じると言った。」
「そうだな。タイ人の男は自分の恋人がマッサージパーラー(ソープ)で働いているのを知っていながら、恋人同士でいれる。これってのも肉体を売ることと精神は違うと割り切っている証拠なんだろうな?かあるいは本来ならばマッサージパーラー(ソープ)で働けるほどの美貌を誇る女を、自分の恋人にしておける、その代償として職業を認める?または自分の恋人の稼ぐ法外な収入を容認し、その職業に目をつぶる?まあいろいろあるな。うん。」
「だいたいタニヤに勤める女達は二つに区別される。」
 安田は滝澤と加藤の話を無視するかのように切り出した。
「一つは親兄弟あるいは自らの大借金を抱えた女だ。もう一つは昼間の仕事に就けない、就いても二束三文の給料しかもらえない学歴の女。そのどのケースも女の容姿が一般タイ人に比して頭抜けて美しいと言う条件が絶対だ。そのいずれかであっても肝心の容姿が優れていないと、この世界は一銭にもならない。まあそう言う意味からして持って生まれた親から授けられた物ではあっても、美しさと言う意味ではプレステージが備わっていると言えばそう言う事になる。」
 滝澤の表情が険しくなる。やや詭弁にとれるその発言、突き詰めてゆけば安田の言っている事が究極だと滝澤にも大きく響くものがあった。自分では金だけで働いているのではないといきがって見せても、所詮とどの詰まるところ、安田の言う二つのポイントに落ち着く。
 ユイもプロイも無言で、しかしもう一言何かあれば、壊れんばかりの有り様で存在する。
「それがなんだ。お金じゃない?だと?格好のいいこといっているんじゃない。金がすべてだろう?はっきりそう言えばいいじゃないか?」
 薄い安田の唇が嘲りの笑いを示す。
「タニヤ・・・タイ人はさっき加藤がいったろう。一般タイ人は皆見下しているんだ。ここで働く女は売春婦だってね。いくらお前達が連れ出し禁止の店で働いているって胸をはったとしても、五十歩百歩だ。それはお前達が一番よく知っている筈だ。そんな所に敢えて働き始めなければならないと言う事は、のっぴきならない理由があるからだ。金と言うな。何か俺の言っていることが間違っているか?」
 勝ち誇るわけでもなく安田は淡々と述べ続ける。
「安田さん・・・貴方のおっしゃっている事はほとんど正しいわ。」
 ユイがそのややふっくらとした気品に満ちた顔を、再び自信に溢れさせた様子で言う。
「その私が何故8万バーツのオファーをお受けしないのか?わかりますか?」
 ユイはあたりにいるホステス全員を見回すようにして。
「みんな変えたいのよ。人生をね。貴方が言うように皆それぞれの苦悩を抱えているの。ある者は借金であり、ある者は家族を養ってゆくためのお金であり。そう・・・貴方の言うとおり誰も好んでこんな所に働きに来ている人間はいないの。」
 タニヤの店のNo.1になるにはそれなりの何かを兼ね備えていなければならない。No.2には誰もがなれる、がNo.1は違う。タニヤの名門、オーガスタの今をときめくNo.1ホステスユイには、風格さえ漂っていた。
「人生って難しいものよ。」
 ユイは語調を変えた。
「オーガスタに働いた事も無いくせにオーガスタで働いたと言う女達、オーガスタでNo.1になった事も無いくせにNo.1だったと言う女達。お笑いだわ。この店で一番になることがどれだけ大変か。No.1になった事のある人間じゃないとわからないわ。」
 オーガスタの店の中ですら、客が言っている事をわかりはしないと多寡を括られた男達、さらにはタイ語がわからないと言うことでその事が表面だった時にも、コミュニケーション不足で誤解だと逃れられると見下して判断された客達には、自分がその店でNo.1だと平気で嘘を付き通す。それ程女達の美に対する、そして客から人気に対するあこがれ欲望は果てしない。プロイも他の女達も誰が本当のNo.1かを知っている。普段はそのことをユイは謙虚に伏せておくのが通常なのだが、その時のユイのように開き直られると、そこには嫌み感覚一つも不思議と起きてこない。
「50万バーツの車を買ってくれる客、日本から毎月10万バーツのお金を私の口座に振り込んで来てくれる、日本に帰ってしまったお客、事お金の問題なら本当に困っていないわよ。ちょっと認識が違っているかも。安田さん。」
「それは長いホステス経験の間で、一番のハイライトを言っているまでだ。普段の君たちの生活は言うほど煌びやかじゃない。」
 安田はユイの迫力にも眉一つ動かさずに言う。
「そうかもね。綱渡りのような物。No.1の地位だっていつまでも続くわけではない。本当に僅かな間・・・夢のようだわ。あの人・・・。」
 ユイは軽く視線を流した。
「私がNo.1になるまで私と競っていた人。私がNo.1になるのに時間はさほどかからなかったけど、それまで4ヶ月連続でNo.1だった人だわ。それが今ではもうトップ10にも入って来れない。当時はお客が彼女に群がったわ、どうしたらあんなに客が彼女にたかるのかって皆不思議がっていた。中には体を売っているからだってやっかみすらあったわ。あの人昔客が帰った後でカウンターのところで客が彼女宛に切った小切手(チェック)をゆらゆら振り回し見せびらかして、私たちの前を歩いて行った。彼女は言っていたわ、3百万バーツだって。」
 ユイはここで話を止めた。夜のホステス業の内輪話しだ。昼間の仕事の滝澤には想像すらつかない話だった。がしかし言われればさもありなんと、その情景がその女をモチーフに容易に想像できる。安田はその昔に栄華を誇った女をしげしげと観察する。人生の機微がそこには漂っていた。
「今あの人なんて言われてるか知ってる?安田さん。」
 安田は無言だった。
「エレベーターガールって。」
 客を取れないホステスが、けなげにエレベーターの前でたっていて、予約なしで、あるいは初めての客が飛び込んでくるのを、エレベータの前でキャッチし、ソファーまで連れてゆきおしぼりまでを世話をする。客が女を選ぶと言えばそこまでの役割。女を選ぶのが面倒な客は、そのままその女を座らせる。そこでその日の上がりが稼げる。または女をさほど選別する目のない、余裕のない客はエレベーターガールであろうが何であろうが、昔No.1の偉容を誇る女に他のホステスと見比べることなしに、決めてしまう。栄光が昔の事であろうが何であろうが、野球で言えば首位打者やホームラン王を取った事のあるバッターが不思議に持つ風格と言う物に負けるのだ。そう言う選手達は事実、力が衰えてもここぞと言う時に打ったりする力を十分兼ね備えている。
「滝澤さん。どうしてああいう風になるかわかって?そこがわかると、私が何故伊沢さんの申し出をお断りするのか、回答がわかってよ。」
 安田でもわかるだろう幕引きを、ユイは滝澤にさせようとしていると滝澤は感じた。沈黙を通してきた滝澤はそろそろ事の顛末を付けるべく、重い口を開いた。
「君たちが夢を見るからいけないんだ。もっとも人間の欲とは恐ろしいもので、君たちだけに当てはまるものじゃないけど・・・。デパートガールで一日中立ちつくして、月給5千から6千。自分たちはその金額で十分生活して行けるのに・・・それを忘れてしまう。本来なら2万も稼ごうとすれば一流大学出身でばりばりの一流企業で仕事をしなければならない。でもこうして日本人たちの欲望を買うための惜しげもない金の洪水に毎日身をさらされていると金の桁が一つ0が違って来る。家を買う、車を買う、携帯電話を買う、ローン地獄に陥る。体は立派な大人だが思考は誰もが避けては通れない所を通過しなければならない。わかってはいても返済出来ないローンを組む。だからまたその金を返すために働き続けなければならない。金は甘美だ。多ければ多いほどいい。とここまではありがちなやや売れっ子のホステスの物語。でもそれを超越すると君のような例外が出てくる。選択肢のあり過ぎる君みたいな美しい女は、一般のホステスとは違う方向に進んでゆく。男には不自由しない。誰もが自分の美しさと君の個性の迫力を否定できないからね。でも自分が愛する男は、本当の自分が愛情を感じた男にするって思うようになる。むろんそれまでに多くの恋に破れてね。一人二人客を失っても構いはしないとの自信と余裕も出てくる。8万積まれようが10万積まれようが、君は君が嫌なものはOKはしない。一方君がOKしてもよいとする相手は、残念ながらそんなに金の余裕がない。ローン地獄、借金地獄と自分の愛情との狭間で葛藤を続ける。その間も着々と年月は経過してゆく。当面の金の工面は確保出来る。そうやって答えを出せないでいる間に年をとって、ああなる・・・。夜の仕事から抜け出せなくなる・・・。」
 腕組みをする滝澤は独り言で自分に言い聞かせるように話す。ユイはにっこりと美しい笑顔を振りまいた。
「と言う事ね。なんだか虚しいわ・・・私たち。安田さんおわかりでしょ?伊沢さんに私が首を縦に振らない理由、お金じゃないのよ。ねえプロイ。」
 ユイの突然の言葉にはっと我に戻るかのように驚くプロイ。
「この人がもっと貴方に優しかったら、とっくに貴方はこの人と一緒になって私のような愚かな生き方はしなくてすんでいたわよね。」
 安田を斜から意味ありげな視線で嘗めるように眺める。プロイは黙ってうつむいた。
「お前達にはお前達の理論がある。が俺達には俺達の言い分がある。なあ滝澤。俺達の言い分を言ってやれ。」
 安田は簡単に受け流した。滝澤はソファーに深く身を埋めその安田の言葉には反応しなかった。
「私が言ってあげましょう。貴方が思っている事、貴方が私にしてきたことをそのまま語れば、貴方達の言い分が100%わかるわ。」
 プロイが安田の言葉を受けてたつ。
「あなた方日本人はこのタニヤにセックスの相手を求めてしか来ていない。タニヤのホステスを女としてではなく、肉体的快楽を求める道具としてしか見ていないわ。ましてタニヤには金に困る美人が目白押しですもの。普段の生活では出会えないような美人がこの一角にたむろしている。さしずめタイのモデル並の容姿の持ち主がこの近辺に集結して来ているような物。こんなてっとり早く便利な場所はない。なまじっか体を売らないなんてこの店のような看板があるから、貴方達のくだらない自尊心がかき立てられる。」
 プロイは自嘲的だった。
「しかし本能で結びついている女との仲はそれ以上に高めようとはしない。入り口がセックスですもの。その先には相手に尊敬も思いやりもないの。最初に尊敬、あこがれが先に立つ昼間の女性との恋愛は、セックスが後回しになり、ようやくそのセックスが叶った時には、もっとその女達との愛情が深まって行くの。その女をいとおしいって気持ちがね。それに引き替え私たち夜の女ときたら、物にしたらもうお終い。私たちの貧困さをさげすみ、教養のなさを侮辱する。そして肉体以外男達にとって何の価値もない生き物かのような扱いをするようになる。その肉体でさえ飽きてくると、まるでぼろ雑巾を捨てるように・・・・とどの詰まる所はお金でしょ。お金を握っているのは日本人。そんな仕打ちを受けても我慢して耐えなければいけないのは、そんな日本人達を信じて愛してしまいついてゆくことを決めた、これまた日本人以上に愚かな、私たちタイ人の女達・・・・・。」
「プロイもういい。」
 滝澤が横で話し続けるプロイを力を入れてたぐり寄せた。プロイのか細い体は滝澤の力によってしなって引き寄せられ、滝澤の胸もとに激しく埋められた。安田がカウンターに向かって人差し指でテーブルを指し示して円弧を描いた。その時、滝澤には安田の確たる表情が読めなかった。がしかし常に平然を装う安田が、いつにも増して何物にも動じない冷徹な目をしていることを感じていた。
 滝澤の言った事は夜の仕事をする女性にとっても神髄を突いていた。しかし一方プロイが言った事もある側面からは神髄を的確に突いていた。様々な物の考えが複雑に交錯しながら織りなされてゆく夜の世界。普段言葉にはしない事が、こうやって明言されると皆をやるせない気持ちで深く包む。


【第百九十二章】ジュリアナ

 金魚鉢の中はまばゆい光で溢れているが、女を選ぶ男が目をぎとつかせる場所は、薄暗く隠微な雰囲気で充満している。下半身の性欲を何ら恥ずかしげもなくさらけ出し、その欲望を満たす相手を物色するあからさま過ぎる場所が、尋常の雰囲気である筈はなかった。滝澤はマッサージパーラー(ソープ)ジュリアナに入って来て、外の白昼のまぶしさと好対照な暗さに、目が慣れるまで立ち止まりしばらく様子を窺わなければならない位だった。指名した50番の女が左手奥の方から姿を見せる。豊満な胸元をピンクのドレスが辛うじて覆っている。思わせぶりな歩きの滝澤に向かって来る女を確認する。
「レストランはどこだ?」
「え?上にいかないの?アップナームは?(シャワーの意だが間接的に彼女たちにとっての仕事の意)」
「ああ要らない。話だけでOK。腹が減ってね。」
 卵形の品の良さそうな顔をしたその女はにっこりと微笑む。客の中にはそう言うセックスを必要としないと言う客も稀だが確実にいる。そう言う場合チップを取り損なう事があるが、骨休めとして自らの衣服を脱ぎ裸にならず、サービスもせず90分をレストランでくつろげると言う事で、多くの場合ソープ嬢には歓迎される。何故やりたくないのかなどとの野暮な質問は女達もしない。レストランでテーブルを挟んで向かい合いになって座る。滝澤もしげしげと女の顔を見てさほど顔の作りが美形ではないと感じる。むろんそれは人間の好みによって変わって来る物で、滝澤にとってはそう見えるかも知れないその女も石田にとっては目もくらむばかりの美形なのかも知れないと自分を戒める。
「貴方、店に入ってきて、女を選んでいないでしょう?」
 雛壇の女達が男を観察していないと思っていると大きな間違いだ。しっかりとあれだけ出入りの多い客達の一人一人を観察しているのだ。
「ああ・・・よく見てたね。君の番号がきりがいいから言ってみただけよ。食事をする話をする相手をしてくれるだけでいいんだから・・・・。でもね君の番号のようにきりのよい番号は、店の方も売れっ子にしか与えないと思ったんだ。はずれはないだろうってね。例えば1とか9とか50とか100とか101とか。」
「貴方何年タイに?言葉も上手。読み方も。」
「君があたりだったってまだ行っちゃいないぜ。」
「失礼ね。まあ、口が悪いこと。」
 2人は笑顔を繕いながら軽いのりの会話がテンポよく続く。
「君みたいな美しい女性は気を付けないと。」
「何を?」
「ただでさえ多くの男が君を狙って来る・・・だろ?僕が君に心を奪われないようにしっかりとしていないとな。」
 笑いながら滝澤は冗談めかして言う。
「いないわよ・・・。そんな人。」
「うんざりだその言葉。もう何回も騙されてきたから。」
「騙されるって誰が?貴方が?・・・・誰から?」
「誰から?だって。すべてのバンコクの女からよってたかってね。」
「面白いわ・・・貴方って。誰が貴方をだませるの?タイ語もそれだけうまくて、貴方を騙す女の顔が見てみたい。」
「自分の顔を見て見ろよ。そう言う顔の女が僕を騙す典型だ。」
「私は騙したりはしないってば。騙すより騙された方がいいわ。」
「どこかの本に書いてあったせりふだ。」
「・・・ったく貴方って・・・。」
「で恋人は何人?・・・警戒するなよ。初めてあって食事を一緒にして楽しく会話をする間柄だよ。僕を騙す必要は君にはどこにも無い。それに僕は貧乏人でね。金を期待しても駄目だぜ。ここまでもバスでやってきたんだ。」
「貧乏人がこんな所にバスで?自転車じゃないの?それも赤い。」
「なるほど・・・それいただき。」
(チャカヤン/シーデーン・赤い色の自転車と言う歌をもじったジョーク)
「ワァウ・・・わかるの!?」
「おかげさまで・・・で君の財布の中には君のティーラック(愛しの人)の写真が・・・・だろ。タイ人は皆持ってるからね。見せてくれよ。世界一の幸せ者の顔を拝んでみたい。」
 女の滝澤に対する警戒心は既に微塵もなかった。タイ語を話せるという気楽さからか、その日限りの客と言う気軽さからか、彼女はハンドバックから黒い財布をとりだした。分厚くふくれあがってかなり使い込んだ財布には様々な物が挟まっている。
「どれどれ・・・ここから見るとその半券は・・・うん・・・どこかの映画館の入場券だな。その色形からするとサイアムディスカバリーだ。客と言ったな、何を見た?それと・・・・あ!その券はマクドナルドでもらえる券だ。それを集めるといい物がもらえる。それと・・・その小さな紙にくしゃくしゃ何か書いてあるやつ・・・それは・・・そうだ単語帳だ。タイ語で英語とか日本語が書かれている。暇があるたびにそれを読んで単語を覚える。友達から聞いたらその紙に書き加えてゆく。うん?それ・・・中国語じゃないか?」
「え?読めるの?タイ語・・・。ははは・・・あなたって本当におかしい人ね。それじゃその単語帳にはどういう単語が並んでいると思う?」
「簡単だ。『私は貴方を愛しています』これは外せない。『また来て下さいね』も絶対だな。『貴方が恋しいです』これはもう必須だ。う~ん。『たって下さい』『座って下さい』『やめて下さい』『この店は付けないと駄目なシステムです』ってのもあるかな。」
 そう言って滝澤はやや調子に乗り過ぎたのを感じた。内容があまりにも深く入りすぎていたからだ。滝澤の案の定、女の瞳にようやく事の次第がわかり初めて来たと言う真剣な警戒のまなざしが滲み出てくる。
「あなた業界の人?」
 言葉がやや重く真剣なトーンになっている。
「いいえ。」
「じゃあなんでそんなに詳しいところまで?」
「昔僕の恋人が君と同じ仕事をしていた。」
 女の表情が一変する。
「どこで?」
「アタミ。」
 しばし両者に沈黙が流れる。
「いま彼女はどこに?」
 滝澤は両手を広げて方をすぼめて見せる。
「おー・・・それだそれだ、見せてくれないか?その写真。」
 滝澤は芽生えそうになった女の警戒心を再び払うかのように、女の財布の中にしまってあった数枚の写真を指さして大げさに物乞いするポーズを作った。女はゆっくりと3枚あった写真の中から、一枚目を思わせぶりに滝澤に手渡しだした。


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Volume.86

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守衛  超高級サービスアパート。客は全員超一流企業の西洋人か日本人駐在員。セキュリティーも完璧な備えで住人達を守る。車の入り口から駐車場まで複数人配置される厳しい戒律に愚かなまで従僕な守衛も、客と一緒に車で乗り付ける若い女性達には手出しが出来ずノーガードだ。神にも等しい定義の客の思し召しで、彼らの慰みに連れて来られる同じ国籍の客人女性に、とやかく言うなど守衛の身では滅相もない。が駐車場に車を止めるまで出会う複数の屈強な守衛達も、決して感情を秘めたりはしてはいけないその瞳の奥で、人間臭い観察をしている。頻繁に連れ帰る女を変えたり、二度と同じ女を連れ帰らない節操のない客人に対する見下しの感覚はもとより毛頭ない。バンコクと言う都市では常識だからだ。だが褐色の肌の夜の仕事に携わる女を頻繁に持ち帰る客には、なぜか当惑の視線を向ける。一方肌の色の白い昼間の仕事に従事するとおぼわしき女性をとっかえひっかえなら、目をつぶる。それが誰もが目を見張る美しく華麗な女だと、心の奥底でつぶやく。『ケン!』(やるぜ!)と。守衛達はこれにまつわるいくつかの不思議な法則を経験から不文律で知っている。美しい華麗な女達は、何故か僅かな特定の決まった客にのみ集中し決して公平には分散しない。それがあながち金の力ではなく、男の外見の見た目の良さではないことも。さらにそんな男ほど、威風堂々としている。目を合わさずこそこそとする客ほど、大した女は連れていないと。そんなアパートの住人は守衛の男達の間でも、密かに人気を博す。男達は連れ帰る女で自らの器を計られる。そんな事を住人達は夢にも考えた事無く、誰かしら自分の価値観で、自分の世界から今日も女を持ち帰る。



【第百九十三章】遅かれ早かれ

「ほう・・・。なに人だ?・・・台湾人かい?」
 滝澤は差し出された一枚目の写真に興味深く注目する。
「注文する物は?なに?」
 いつの間にかテーブルの横でたたずんでいるウェートレスが滝澤の目に入った。年の頃は滝澤の前に座っている女とほぼ同じくらいだと滝澤には思えた。がしかし肌が黒く鼻梁が通っていない。その場所では気持ちのよいくらい、容姿とスタイルだけが全てであり、そのファクターだけが天と地の差を分ける。ウエイトレスの給料と店での地位は、ソープ嬢のそれとは雲泥である。健康的で大きな目を輝かせて滝澤の注文を待っているその女から、滝澤は目の前の女より遙かに若々しいエネルギーを感じた。
「君は?お腹は?」
「そうね・・・じゃあヤムウンセン(はるさめのサラダ)にイカを入れて。それとパクブンファイデーン(緑色野菜炒め)。そして・・・スープはトムヤムクン。」
「典型的だな。お決まりのメニューだ。」
 滝澤は再び写真に視線を落としたままそう言った。
「いいえ、日本人が馬鹿の一つ覚えで注文する食べ物よ。」
 ゆっくり滝澤は写真から目を外す。
「なるほど・・・。それじゃ君たちタイ人は?」
 滝澤はそう言うなりウエイトレスに、
「バーミーナームトムヤムひとつ。それにソムタム。カオスアイ(ご飯)。」
 ウエイトレスははじけるような笑いを浮かべ、女と滝澤が注文した皿を復唱し、その場を快活に去って行った。写真の男はどう見ても年の頃20代の後半と若く見える。ひさしを深々とかぶったその男はお世辞にも二枚目の男には見えない。
「彼は?どのくらい君の所に来るの?」
「2ヶ月に一度はバンコクに来るかしら?お父さんの仕事の関係で。もう何年にもなるわ。バンコクに来たときは必ず私をホテルに呼んでくれるの。」
「お父さんも一緒の事は?」
「あるわよ。」
「じゃあ君はお父さんを知っている?」
 女はうなずく。
「結婚でもしようと思っているのか?」
「彼はそう言っているけど・・・、どうかしら。こんな所で働いている女を女房にしようなんて思うかしら・・・・仮に彼が思ってもあの親が許さないわよ・・・きっと。」
 女の言葉尻が何かしら意味ありげな抑揚を秘めていた。
「これは?なに人?」
 滝澤は女の言葉を耳だけで受け流し、引き続き視線を手元から外さず次の西洋人の写真を見る。
「イギリス人。」
「へえー。」
ワニ その写真は彼女とどこかに遊びに行った時のスナップ写真だった。男の所だけが切り抜いてある不自然な写真に滝澤には映った。
「どこだ?ワニ園?」
 女はうなずく。
「相手は今どこに住んでいるの?」
「イギリス。」
「そりゃ大変だな。そう簡単には会えない。」
「だって一度しかあったこと無いわ。そのときだけ。私を選んでくれて1週間旅に出たの。」
 よくある話だった。旅行客がタイの国内を観光で旅するその際に、おまけで女を連れてゆく。下半身の欲望を満たす深夜イベントオプション付きのタイの旅だ。これで息が統合すれば魅惑のオリエンタルな旅と化す。時としてこのオプションが命取りになり人生の舵を変更させられる人間すらいる。性格が合わなければ運が悪いと諦める。まるで使い捨てのカメラのように。店に支払った金を無駄にするだけだ。そんな役割を演じる女の方が、一度しか会った事のないその男の写真を自分の財布に入れているには、それなりの特別の理由がある筈だった。毎日毎日そう言うエピソードに事欠かない女が写真を3枚持ち歩いているのだ。尋常ではないと滝澤は考える。
「格好いいな。この男ハンサムじゃないか。」
 女はにっこりと微笑む。女は滝澤の手からその写真をむしり取って、まるで初めて知らない人間の写真を見るかの如くまじまじと観察した。
「ええ・・・。格好いいでしょう。」
 滝澤は今度は女の表情をしっかりと観察し、一瞬だが先ほどのウエイトレスと何ら変わりのない少女の表情をかいま見た。滝澤はゆっくり頷きながら最後の写真に目をやる。そして滝澤が待ち受けていたお目当ての石田の写真であることを確認する。
「うん・・・これは俺のお友達(プアン)日本人だ。こいつとは?」
「その人ね。最近よく通って来るようになった人。特別な感覚は無いんだけど、彼・・・私に一生懸命だってのがよくわかるから・・・それが嬉しいの。」
 滝澤はそう言う石田評を聞くのがやるせない気持ちになった。石田がこの場所にいたら、既に違う男の写真が2枚財布に入っている事自体が許せない筈だろうと思う。第三者だとここまで冷静になれる事も当事者では、見境がなくなる。がしかしこう言う商売をする女の立場になって物事を冷静に考えれば、答えは簡単なのだ。女達は男の欲望に毎日晒されている。素人にとっては当然異性との出会い、つき合い、そして肉体関係などは日常茶飯事ではあり得ない。そのどれもがビッグイベントとなる。がしかしマッサージパーラー(ソープ)の職業の女達に取っては、それが金が介在する物であるとしても、肉体関係は日常茶飯事なのだ。何の違和感もない。確実に何かが麻痺し、石田の様なバンコクに来て日の浅い人間とは、語り合っても決して理解し合えない世界どうしになる。
「彼はなんと?」
「私の事が好きだって何度も。これね・・・。」
 女はそう言って左手にはめられている金の腕輪を滝澤の前に差し出す。
「彼が買ってくれたの。ヤワラ通りで。」
 滝澤はもう石田に関する事情徴収の様な真似事をするのはやめにしようと心でつぶやいた。誰もが最初麻疹のようにはまるバンコクの甘い夢にも似た序章。手頃なソープの女を好きになるのは必然とでも言える成り行きだ。女は冷静になって凝視すれば、ある一定のレベル以上であるのは職業柄当然だとしても、取り立てて容姿端麗なわけでもない。彼女たちが日本人の男達を魅了してやまない要因は、日本ではおいそれと実現しない肉体関係を容易に現実化するその金額、さらにそれを何十人・・・ときとして何百人の女性達から選べると言うシステム、加えて女達の若さ、そして若さから来るが故の表向きの御しやすさ。通じない言葉から来るもどかしさと神秘性、タイ特有の風習として女が持つ男や目上の人間に対しての献身的な態度。それがやさしさとシンクロして映る男達を魅了する。現代社会で一番そこに餓えている男達はそれにずっぽりと身も心も舞い上がる。買ってやる物は女達の要望に従う金。ちまたに溢れかえっているありすぎの話だ。彼女の指と言う指、そしてネックレス・イヤリングは金で飾り尽くされている。奥ゆかしさを見せる大人としての装飾を施すには年齢が若すぎる。滝澤は石田を不憫に思った。その時女は本音を語り始めた。
「いい人なんだけど・・・ちょっとお金が足りないの。」
 滝澤の既に予想していた言葉の一つが滝澤に襲いかかって来た。
「さっきの台湾人とイギリス人などに比べると、私に使うお金が少なすぎるの。」
「・・・・・。」
「その人・・・若いってのもあるかしら。日本人だからお勤めのひとでしょ?日本の会社って若いとお給料が少ないんでしょ?それともこれって良くある話なんだけど、日本から来たばかりの人って、相場って感覚がないでしょ?チップの額や、お金を渡すシチュエーションを決めたりするのに不慣れだわよね。これってルールがある。彼それをわかっていない。ただ単にけちなのかしら?けちは嫌われるわ・・・。」
 滝澤は方をすぼめて見せる。話を変えるために、滝澤は先ほどから滝澤の目に留まっていた、財布に強引に突っ込まれ、財布の肉厚を稼いでいる封筒を指さして言った。
「誰からの手紙?」
「え?これ?・・・ああ・・・これも貴方の友達からよ。」
 滝澤は封筒がいかめしい紋章の付いた宗教団体のそれであることを確認した。
「何だって?」
「来週の水曜日から一週間タイに行くからつきあえって。前回この人タイに来たとき旅行する時私を連れて行ったの。ほら、これスケジュールだって。」
 滝澤は日程に目を通した。その男はバンコクに1泊、チェンマイに2泊、スコータイに2泊、そして再びバンコクに1泊する旅行日程を組んでいた。その先々のホテル電話番号まで記載されている。
「で・・・行くのか?」
「わからない・・・・。」
「この人ももし君をそうやって連れて行きたいのなら、君にこうやって手紙を送って来ても駄目だよな。前回がそうだった様に、この店に来ないとね。そしてしかるべき金を店に払って貸し切らないと・・・。ねえ君ってパパさんがいるの?」
 女に鋭い眼光が宿る。
「*注1)イサラーよ。(自由)」
「それじゃあ店を休んでもさほどの影響はないか・・・。」
「ええ・・・お金はそんなに問題じゃないし、休みも自由になるわ。でも問題なのは・・・・。」
 ここで途絶えた女の話に、滝澤の思考が唸りをあげ始める。
「凄く太っているの。それに口臭がきつい。」
「君たちは毎日客を相手にしているんだろ。そりゃ背の小さい人もいれば、高い人もいる、太った人もいれば、がりがりに痩せている人だっている。白髪頭の人もいれば髪の毛の薄い人もね。老人もいれば若者も。そんな事に一々こだわってちゃ仕事にならない。」
「ふん・・・前の彼女がそう言ったの?」
 女は鼻でせせら笑った。 
「ええ・・・でもそれでも許容範囲と言う物があるわよ。」
 滝澤は容易にこの女の言葉が理解できていた。
「さっきの貴方の*注2)お友達の日本人ね、あれがしつこすぎるの。それに応じたお金は払わないくせに。それでいてお金を払わないですんでいるのを、私が心から彼を愛したと勘違いしている節もあるの。ああいう人に限って、友達なんかに、俺は女から金を取らないでやらせてもらっているんだ、なんて威張るのよ。困るのよね。なまじ最初差し出されたお金を要らないなんて断ると、お金が目的じゃないなんて勝手に解釈して私の株を上げてのめり込んでくるわ。もっともそれがこっちは手でも有るんだけど・・・私たちのように毎日体を売っている女が、誰が出会って僅かで恋いに落ちますかって。誰だって二回目三回目からはお金を受け取るわよ。お金があれば誰がこんな仕事をすると思って?どうして貴方のお友達はそこがわからないのかしら?でもね・・・さっきも言ったようにその人・・・いい人はいい人なの。私を好きだってのも嘘じゃないってわかるから・・・。困った物ね。でも遅かれ早かれ・・・そうねあと半年もすれば彼にもわかる事。今どれだけ自分がとぼけた事をやっているかって。後で赤っ恥をかく事になるわね。まあいいお勉強かしら。」
 女は眉を僅かにつり上げて滝澤を見る。滝澤は打ちひしがれていた。石田が赤の他人であったとしても、そう言う見解を聞かされるのは男として忍びがたかった。滝澤には石田にとって、それが誰もが陥るそして通らなければならない洗礼であることはわかっていた。そして女の言っていることが圧倒的に分があることも。現段階ではいくら女の年齢が若かろうが、女と石田ではプロとアマの差がある。石田がどう頑張っても叶わない。
 金魚鉢の向こうで女はあらん限りの自分の色気を発散させ男の指名を待つ。横に並ぶ年上の女から若い女へ、時を経て脈々と申し送りはこれでもかこれでもかでなされて行く。よい客には一回目の代金を遠慮しろ、二回目を取らないと日本人は無理矢理にでも金を渡そうとする、そしてその金額は倍加する。控えめを美徳とする日本の国民性を明確には知らずとも、見事に核心を突いた経験則だ。西洋人と一緒の時は構わない。でも日本人といるときは、たばこを吸うな、物を食べるな。とどのつまりは、勘違いの男の見切り方捨て方。さらにはゆすりたかりの手口、男のアパートからの物品盗みの指南まで。
「どうしちゃったの?いきなり静かになったわね。ほら食べなさいよ。」
 そう言って先ほどから徐々に揃いつつあった料理をすくっては、滝澤のさらに盛る。
「ねえ今度アップナーム(シャワー)においでよ。」
 女の瞳が邪悪に輝く。
「よし・・・俺帰る。」
 滝澤はその女の発言を待っていたかのようにタイミング良く椅子を引いて立ち上がった。
「まあ!、まだ何も食べていないじゃない。時間だって・・・・。」
 女はいきり立って滝澤に訴える。
「有り難うな。もの凄く勉強になった。」
 滝澤は柔和な顔をしてその女を見下ろしながら静かに言った。そして一瞬緊張の面もちで思考を走らせ、財布を手にした。そして女の前に差し出す。その金を見て女の顔に大きな戸惑いの様子が浮かんだ。女は困惑しながら恐る恐るその金を手にして、滝澤にぎこちなくやっとの思いでワイ(合掌)をした。滝澤は女が金を受け取ったのを確認して、おもむろにそのテーブルを後にした。どう言うリアクションをして良いのかわからない女は、滝澤が去ったあとも困り果て呆然としていた。女の手には、よれよれの20バーツ(60円)紙幣が握られていた。


【第百九十四章】牙をむく居城

 ビジネス街サトーン道路は、景気の華やかりしき頃、その道に面するビルの地下駐車場から、サラリーマン達が仕事が終えて通りに出るだけに、優に1時間かかる事も珍しくは無かった。高層ビルが立ち並ぶ広い通りは近代バンコクを象徴する通りの一つだ。滝澤は高級住宅とはこう言う所の物件を言うに違いないとしばし驚嘆していた。そのきらびやかな交通渋滞激しいサトーン通りからソイに入る。僅か100メートル程の所に、サトーン通りの喧噪からは信じられないくらい別世界が展開されていた。右折をすると滝澤の視界にピスディーが立っていた。真っ白な薄手のニットのカーデガンを同系色のタンクトップの上から緩やかに羽織っている。滝澤はピスディーの素肌の白さをハンドルの上フロントグラス越しに眺め改めて驚く。ピスディーの手招きそして背中をおいながらアパートの1階の駐車所に車を進める。
「ここでいいわ。」
 ピスディーが手を掛けてエンジンを切っていない車のドアを開ける。
「そのままで結構よ。後は守衛の人が駐車してくれますから。」
 滝澤は事の次第を理解する。いつの時でもそうだが、自分の車のキーを付けたままエンジンを切らずにそのまま車を離れるときは、不安な気持ちに駆られる。ピスディーは滝澤の左手を引っ張り、先ほどピスディーが立っていた通りに滝澤を連れてゆく。
「見て。この建物全部がプラソンさんのお家。」
 二人は建物を見上げる。8階建てのマンションだがやや普通と趣が異なる。よくよく観察して行くうちに滝澤にも全容が理解出来ていた。
「この建物、ワンフロアが一軒の造りだな。普通ならワンフロアに6部屋分くらいの戸数の広さが一部屋まかなわれているってわけか・・・。これは日本語では億ションって言うんだ。プラソン氏とやらの職業は?」
「私も良くは知らないんだけど、不動産業をやっているみたい。ペンは私の高校時代の友達で、プラソンさんの会社に働き出してプラソンさんといい仲になっちゃって・・・・いまこうやってここで彼と暮らしてるの。」
「ありがちだね。プラソンさんって年は?」
「50歳かな。」
「僕たちより遙かに離れてるね。さっき君高校って言ったな。彼女の大学は?」
「エイベック。昔はアッサンプションって言ってました。知ってます?」
「ああ・・・、あの英語で授業をやる私立の大学ね。授業料が高いので有名な。」
「そう・・・。」
「で結婚してるの?」
 ピスディーは首を横に振った。
「それはそれは・・・。彼女の出身は?」
「クルンテープ(バンコク)。」
「アウ(おやおや)、同じ都市で住んでいながら、親と別居?よくそれを容認してるね。」
「ペンは昔から一人で生活してたのよ。何だか複雑な家庭環境があるんじゃないかしら。クルンテープに居ながら、親と暮らしたことがない。」
 滝澤はうんざりするほどありがちな話を頭に浮かべる。タイにおいて、ピスディーの友達のペンと言う女性の身の上で特殊なのは、生い立ちがどうであれ、どうやら金には不自由しない生活をしてきているらしいと言うポイントらしいと滝澤はインプットした。
「さあ行きましょう。」
 夕暮れが迫って来ていた。賑やかなサトーン通りと対角をなす静寂さ。時としてその静かさは不気味にも隠微にも迫る臭いが滝澤にはした。その巨大なビルが全部その男の持ち物だと言う。滝澤は華々しい大通りから僅かに引っ込んだ場所に、事も無げに牙をむく大金持ち達の不可解な居城に踏み込むような胸のざわめきを感じていた。


【第百九十五章】邸宅

プラソン邸 エレベーターは7階で止まった。扉が開いた瞬間滝澤に異様な雰囲気が襲ってくる。開いたドアから巨大な空間の踊り場に出るが、入り口の扉は一つしかない。何故踊り場にそれだけの巨大な空間を犠牲にしなければならないのか。いきなり玄関に導かれるエレベータであってもよいはずだ。滝澤は一瞬そう疑がったが、ある仮定が綺麗にその疑問をぬぐい去った。普通のアパートと違って異常に高い天井が人を威圧し訪れる人間を不安気にさせる。人間の背の高さの2倍は優にあろうかと思われる重々しい扉が、テレビカメラに話しかけたピスディーの声に迎合して、使用人によってゆっくりと明けられる。滝澤の緊張感は開けられた部屋の中の状況を見て一気に最高潮に達した。驚きについつい滝澤の歩がゆるみがちになる。そう言う滝澤を不思議な目つきでピスディーは窺いながら廊下からリビングに滝澤の肘をとって導いた。リビングは優に二百平米はあろうかと思われる広さで、部屋の中央にはスヌーカーテーブルが据え置かれていた。部屋のありとあらゆる所に骨董品の焼き物、銅像、絵画が並べられ、詳しくはわからない滝澤にも、それなりの風格を漂わせている。その部屋一つをとっても滝澤は既にその持ち主の性格を有る程度把握出来ていた。部屋の隅のカウンターにその日のホストらしき男が入り、葉巻をくゆらせ、煙をかき分けるように滝澤を抜け目無く観察している。恐らくは滝澤が部屋に入って来た時からその観察は継続されていたに違いないと滝澤は確信する。外見からして既に堅気ではないただならぬ雰囲気を醸し出している。小太りのそして例外なく浅黒いあばたの皮膚、目だけが大きく相手を威圧する。
「サワッディークラップ(こんにちは)。」
 滝澤は日本式にお辞儀をした。
「腰掛けな。」
 男はそう言って自分の正面のカウンターを顎で示す。滝澤は言われるがままに男と至近距離でカウンター越しに腰掛ける。
「何を?」
 男は手元にならぶ洋酒のコレクションに目を落とし手で払うようなジェスチャーをする。さらに続けて背後の棚を指さして見せる。そこには酒の控えがぎっしりと横たわっている。
「そのシングルモルトを。」
 滝澤は緑色の三角形の瓶に入ったウイスキーを指さした。男は葉巻を口にくわえたままで、煙に眉間にしわを寄せ瓶のふたを捻る。滝澤の前にグラス底の音がけたたましく響く位の強さで無造作に突き出す。振り向きざまに左下の戸棚の扉を開け、缶を取り出しアルミの蓋を指で起こす。缶の中の真空状態に空気が入り込むかすれた音が勢いよく部屋に響く。無造作に缶の中身の乾燥ホタテを皿の上にばらまく。勢い余って数個のホタテが皿からこぼれ落ちる。そんな事も意に介さぬ様に、皿を再び滝澤の前に放り投げる。年齢の行った男二人以上が出会うと、力関係の見極め合いでせめぎ合う。相手の力量がどの程度かを見定めようとするのは特に堅気ではない人間達のもつ本質の様な物だ。男は手を動かしながらも、紫色の煙の向こう側から目を細めながら、それとは分からずに注意深く滝澤をひたすら観察し続けてやまなかった。
「貴方が滝澤さん?」
 すらりと長身のやはりピスディーと同じ白いイブニングドレスを華麗にまとった女が登場した。滝澤は容易にそれが先ほどのペンだとわかった。ペンはにこやかに滝澤の所に近寄ってきて、体を滝澤にぴったりと添え、右手で滝澤のポロシャツの上から胸をなでる。
「スッ。なかなかいかしてる男じゃない。」
 滝澤の胸元で軽く電流が走る。ペンが親指と人差し指で滝澤の乳首を力を込めて摘んだのだ。ペンはさっと滝澤から身をはなし今度はピスディーの方に向かう。まるで何事もない軽い挨拶かのように滝澤を通り抜けた。そのとき滝澤達が入ってきた扉から新たに一組のカップルと一人の女が現れた。滝澤の脳裏に一筋の閃光が駆け抜ける。一人でいる女の方だった。滝澤の記憶はその女をどこかで見たことがあると盛んに信号を発している。がその信号が尋常な信号ではない。滝澤には未だ気づいていないが、脳は直感的にそれに気が付いて警鐘を鳴らしていかのようだった。滝澤はその記憶を必死でたどろうとする。ペンはピスディーに近寄ろうとしていたのをやめてきびすを返して、その二組のカップルを迎えに回った。ピスディーが立ったまま、腰掛ける滝澤の耳元でささやく。
「あの背の低い方がノイ、一緒に居るのはスティーブ。アメリカ人よ。後ろがアム。全員エイベック出身。」
 滝澤はアムのところで視線がとまり身じろぎもしない。全員肌の白い中華系タイ人。金持ちの娘達。ピスディーを含め四人とも、それぞれの個性で美貌を誇る容姿をしていた。服装は言うまでもなく持ち物・靴、どれをとっても一流ブランド品であることを滝澤は観察していた。滝澤が不安に思ったのは、滝澤の記憶にあると言うのであれば、その相手の女も滝澤を見て何らかの反応を起こすであろうと言う物。滝澤が思い出す前に向こうの女が滝澤に何らかのコメントをする事であった。がしかしアムと呼ばれる女は、何の反応も示さない。滝澤はそう言うアムの反応を見て記憶を辿り始めるプロセスを変えていた。
「へい!スティーブ。元気だったか?」
 プラソンは大声ではしゃいだ声を出す。細身長身の生真面目そうな、その若いアメリカ人は、
「ええ。貴方は?」
 とややシャイに応えながら握手をする。
「滝澤さん。日本ではバイアグラは手に入るのかい?俺はビルマ製の良質のバイアグラをしこたま買い込んで来たんだ。ダイナマイトだぜ!」
 プラソンは開口一番この話題を選んで滝澤にぶつけてきた。
「もうすぐしたら医者の処方の下で日本でも買えるようになります。これまでが活発に水面下で取引がなされて来ましたが、解禁になるとバイアグラへの興味も薄れるでしょうね。」
「何だそうか。せっかくホームページを作って輸出をしようと思っていたのに。ペンにコンピューターを買ってやって、そのなんだ・・・あんたのスッが教えるって・・・算段をしていた所だったんだ。あんたコンピューターは詳しいかい?」
「人並みには。」
 横でピスディーが首を大きく振る。
「そうか・・・それじゃ今度パンティップにコンピューターを買いにゆくからどれがいいのかアドバイスしてくれ。」
「はあ。それは結構ですが・・・。」
「おい!ペン。」
 プラソンは新手の客を部屋の遙か向こうのソファーでもてなしている自分の女を呼びつけた。
「何?」
 ペンはぶつぶつ男に文句を言いながらも近寄って来る。
「滝澤さんに部屋を案内しろ。それとバイアグラも分けてやれ。」
「ああ・・・それは結構よ。」
 ピスディーはプラソンの言葉に反応して手を小さく左右に振った。ペンは滝澤をしばしじっと観察して。
「貴方・・・この人若いわ。バイアグラの力を借りなくても十分使い物になるんだって。貴方とは違うってよ。」
 冗談半分か本気か滝澤にも分からないが、極めて真剣な眼差しでペンはプラソンとやりやっていた。
「るっせえ。黙って言われた通りにしろ。」
 プラソンはそう言って器用に人差し指と中指でシガーを挟んだままで、自分のグラスを一気に仰ぐように掲げ、底を天井に向けた。
 ペンは三部屋ある寝室を順に紹介してゆく。泊まりに来る客が頻繁にいるのか、プラソンとペンの愛の巣以外の二部屋は、きちんと真新しいシーツでベッドがとってあった。各々の部屋にシャワールームと洗面所があり、洗面所には顔用と手用の二種類のタオルが一対づつおいてある。櫛、整髪のためのドライヤーやジェル、ムースなども完備している。ベッドルームには冷蔵庫テレビ・ビデオが備え付けになっており民家と言うより高級ホテルの一室の様相を呈していた。その時滝澤はゴージャスな部屋であるにも関わらず、そこに居る人間の気持ちを和ませない、威圧的な圧迫を加える要因が何かを探り当てた。滝澤の部屋に入ってきたときからのおかしな感覚の理由が、だんだんジグソーパズルのように、きちんと組み上げられてゆく。
 異常に幅の広い廊下から眺めるバンコクの風景の手前には、水の張ってあるベランダの中央にライオンをあしらった彫刻が座し、口から水がわき出る風景で遮られていた。水の中に埋められたオレンジ色の間接照明が、幻想的にそのライオンを浮き立たせ、その遙か彼方に広がるバンコクの喧噪の灯火達を背景にアンティークな独特の雰囲気を漂わせている。酒が入りその力を借りて僅かな何かを解き放ち一歩間違えば、体内で甘美なエロチシズムに心地よく火の手が廻りかねないざわめきの感覚が滝澤に伝わる。薄暗い照明を切り、月の明かりに目が慣れて来ると狂気に襲われ、それに屈する事がいかに簡単で安らかな事かを想像するに難くない。高々とした天井と壁に配置される間接照明で、隠微に包まれる巨大な廊下の空間に押し潰ぶされそうになる。ペンは続いて厨房に案内する。そこでは二人の料理番がせわしげに今夜の宴を演出する料理を手がけていた。一家庭の台所と異なりホテル顔負けの厨房設備が整っていた。巨大な厨房の冷蔵庫は滝澤の背丈を優に上回る高さの観音開き。ペンは冷蔵庫の中の品々まで事細かに解説した。ストックルームには、年代物のワインや高級ウイスキーの買い置きが所狭しと並べられている。ペンはその部屋からドアを開けて家の外に出た。先ほど滝澤が入ってきた場所と違う踊り場にでて今度は小振りのエレベーターがその階で待機していた。
「他の階は、プラソンさんは他人に貸しているんですって。上の一番いい部屋ペントハウスもね。」
 ピスディーがため息をつきながら言う。
「大体10万バーツで貸してるの。滝澤さん、貴方もよかったらどう?」
 バンコクと東京では、不動産関連はゼロを一つ付ければ適正価格になると言われている。その地の利でこの部屋の規模だと30万円にゼロを一つ付けて月300万円と考えると、ぴったりその法則が当てはまりそうだと滝澤は納得する。
「ちょっと家賃に月10万バーツはきついな。他の階もがらがらじゃないか。誰も入っていないんだね。」
 滝澤は当初外観を観察していた頃よりそう感じていた部分を口にした。
「そうね・・・昔はこれでも全部埋まっていたのよ。たった3年前まで。それがこの有り様・・・。」
 ペンは両手の手のひらを持ち上げるように肩をすぼめた。
「昔は良かったわ。彼ね私のために香港のビクトリア湾を一望できる超高層ビルにマンションを買ってくれて、1ヶ月に一度は私たちそこから香港を展望しながらバスにつかりシャンパンを飲んだわ。でもそのマンションももう売っちゃったんだけどね。」
 滝澤はその言葉を想像するにさほど難しくはなかった。不動産をやっているプラソンと言う男、バブル時には濡れ手に粟の利益を手にした筈だ。それも巨額の。しかし通貨危機が襲って通貨切り下げが起きてからは、これまた半端ではない巨額な債務を負っているに違い無かった。その裏付けが部屋の至る所に既に現れていたのだった。


【第百九十六章】結びついた憶測

ダイニング そのアパートの中で一番景色の良い方角の一角に儲けられ外界とガラス張りのダイニング。円卓に椅子が14並べられ、人と人が座る間隔はたっぷりとられていた。そこに7人でホストは窓を背にゲストはホストに向き合うように腰掛ける。一面ガラス張りの部屋は全員にパノラマのようなバンコクの夜景を提供する。日はとっぷりと暮れ、街の明かりが息をつき始めていた。二人のメイドが恭しく料理を運び始める。プラソンは食卓に付く前から、かなりの勢いで酒を飲んでいた。心なしか首元がおぼつかない。言葉も急にがさつな声を発したかと思うとまた静かになる。その頃には滝澤を敬称なしで呼び始めていた。
「タキザワ!・・・飲め!」
 言葉でそう騒ぐだけで別段グラスを進める風でもなし、視線と視線を合わせるわけでもない。そう言うとまたうつむいたまま静かになる。酔いの回った人間の典型的な症状だと滝澤は見ていた。
「この黒鶏のスープはな、精力が付く・・・。タキザワ、体にいいんだぞ。」
 そう言って散り蓮華で自分の賞味に没頭している。プラソンは先ほどからやけにタキザワの名前を、ことあるごとに連呼していた。滝澤はプラソンと言う男の人間的弱さを悟り始めていた。
「スティーブ!グァバジュースを飲むか?」
 襟足短く刈り込まれこざっぱりした金髪が食卓の上にしなだれかかるクリスタルシャンデリアからの光に鈍い光沢を反射している。先ほどからノイと言う女と頻繁に顔を近づけては頬を寄せ合ったり、口づけを繰り返していた。
「え・・・ああ。」
 プラソンから自分たちだけの世界に水を差された風で、スティーブは身の入らない愛想返事をする。
「今日買ってきてたグァバはな、タイ産であまりうまくはない。普通はインドネシアの奴を買ってくるんだ。これが最高だ。グァバはな、ビタミンCが桁違いに豊富で肌にいい。」
 話しかけた相手が自分の言葉を聞いていようがいまいが、お構いなしでプラソンは続ける。現にスティーブは既にプラソンの言っている話しを聞いてはいなかった。その向こうでひっそりと黒いシースルーをはおるアムは、品の良い笑顔でピスディーと共に常に静かにただただ存在する。それはその家の雰囲気におおよそ似つかわしくない場違いな清楚なイメージであるかのように滝澤には感じられた。
 プラソンは左手に座るペンに体の正面を向け、いきなり抱きつく。ペンのか細い体がしなりプラソンに引き寄せられる。プラソンの顎がペンのむき出しになった真っ白な首から肩の線に近づき、鎖骨に埋められ目を閉じた顔が首筋に沈められる。片方の手がペンの右胸を捉えまさぐり始める。ピスディーは恥じらうように視線そらし自分の前のテーブルの上に落とした。ペンにもアルコールが入ってはいるものの、プラソンとは違って気が張っていて、そう言うプラソンの愛撫に浸るような風情ではなかった。
「スッ・・・私たちってどうしてこうなの?」
「え?何が?」
 ピスディーはペンの言葉に驚いたように反応する。
「ブーア。(飽きる)」
 濁音をのばし顔をゆがめながら言う。
「男ってどうしてこうなんでしょう・・・。」
 プラソンの手の動きの増長を戒めるように、ペンはプラソンの手首に手を当てて動きを抑止している。ペンのか細く長い腕に力が入るのを証明する筋肉が、浮き上がっているのが察せられた。ノイもアムもスティーブもペンの言葉に注目していた。
「強い男ほど身勝手。何でも自分の思い通りになると思っている。至る所に女を作って、気が向いたときだけ帰ってくる。そして・・・。」
「フッフッフ。」
 低いくぐもったプラソンの笑いがペンの胸元から漏れる。
「アム・・・あんたもそうでしょ?どうしたの最近、あの日本人は。」
 急遽、滝澤にうっすらと遠くの方で何かが点滅する感覚が襲う。しかしまだそれはほなかでぼんやりとしたものだった。
「ノイはスティーブとロサンゼルスに行くのよ。そうなったら私たち3人になっちゃう。」
 今度のその言葉は滝澤の憶測を大きく加速させた。日本人、ロサンゼルス、滝澤の探している物が一挙に待ったなしで近づいて来て、その輪郭をはっきりさせる。
「あっ!」
 滝澤はその瞬間小さくしかし力強く誰にも聞き取れる叫び声を発した。
「どうしたの?滝澤さん。」
 ピスディーがいぶかしげに滝澤を覗く。滝澤は心の中で激しい胸騒ぎを覚えていた。その女がどこで見た女かを、今やはっきりと確信出来ていたのだ。
「所詮・・・この人たちのとどの詰まる所は・・・セックス・・・懲り懲り。」
 ペンはそう言ってプラソンを両手で突き放す。心地よく陶酔した表情を変えず、プラソンはその勢いを借りて立ち上がり、靴のまま椅子に足をかけ食卓に上る。滝澤達から見上げられる格好で、食卓の中央でプラソンはやおら両手を広げフラメンコを踊る手つきで体を回転させステップを踏む。
「やめなさいよ。みっともない。早くして・・・おりなさいってば。」
 ペンはそう言うプラソンのズボンの裾を迷惑そうな顔をして引っ張る。スティーブもノイもアムも面白そうにそんな二人のやりとりを見守っていた。表情が硬い滝澤と、その滝澤を見て同じく微笑むことが出来ないでいたピスディーが、今やその家では完全に浮いた存在になっていた。淫靡な間接照明、天井は照明から取り残され暗く翳る。気を付けないと静寂に押しつぶされそうな音。十分回りすぎたアルコール。鼻を突くシガーの香り。そして公衆を憚らず展開される人間達の綾。滝澤はそこに存在するだけで、昼間の人格が自覚なしに破壊されて行く感覚に襲われた。
「おーい。出てこい!。」
 プラソンは大声で叫ぶ。他のメンバーは幾度と無くその家を訪れているのか、そう言うのりのプラソンのパフォーマンスに、さほど違和感を感じていないように滝澤には映った。先ほどまで全員がいた居間の方向に皆の視線が注がれる。
「こッ・・これは・・・・。」
 滝澤は現れて来た人間を見て不思議と不快感に襲われる。


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Volume.87

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 日本人の男はその夜の仕  日本人の男はその夜の仕事の女の健康状態を知っていた。B型肝炎・子宮筋腫を煩い夜の接客業での仕事時間中も、顔が土色をしていて笑顔がでない。それ所か、日によっては立っているのさえも辛そうな顔つきをしている。男はその女の命を救うのは自分しかいないと疑わなかった。夜の仕事をそのまま続けさせていると、その女の命は確実に損なわれる。男は女を夜の仕事から首尾良く辞めさせて、日本人が行く一流私立病院に通院させる。英語を勉強したいとの女の希望を満たしてやるため昼の学校にも通わせる。男は会社が終わり彼女が学校から帰ってくるまで、毎日スーパーに買い出しにでかける。にんじん・茄子・ブロッコリ。もともと好きだった料理の本を片手に自らで包丁を握る。粗食そして辛い味付けに慣れ親しんだ、タイ人女性の口に合わない料理を、健康のため何とか食べてもらおうと必死に工夫を凝らす。女は学校返り男の家に寄りひとときを男と過ごす、そして夜の仕事が終わる時間に等しい真夜中の一時に必ず自分の家に戻ってゆく。彼女の顔色に赤みが増し血色がよくなり、少しふっくらとし出した頬を見ながら男は幸せ感に浸る。今まで自分が水揚げさせようと欲した女達は、皆彼のオファーに背を向けた。生まれて初めて自分の申し出を受けた女をことさら愛おしく思う。女は結婚をする前に男の家に泊まるのをかたくなに拒み必ず毎日家路につく。男はそんな女の貞操に再び感銘を覚えさせる。女は今まで通りの時間に、今まで通りの接客業を終え、3年前に結婚した無職のタイ人亭主の所に戻ってゆく。タイ人亭主への愛情は既に枯れていた。がしかし戻る場所はそこしかない。日本人の男の家で寝起きしたいと思わなかった。いずれ悟られる偽りの愛か?あるいはその日本人の掛け値なしの愛情に自分が押し拉がれるのか?先の事は女には分からない。しかし一つだけはっきりと自分に分かることは、どうしてもその日本人の男と体を交わせたくはないという生理的な拒絶だった。


【第百九十七章】アムの別名

 居間から通じるドアから表れたのは、歳の頃30代半ばのタイ人男性だった。がっしりとした体つきながら柔和な表情で笑顔を湛えていた。
「おー良く来たエド!」
 不自然に大きいジェスチャーを交えてプラソンは、おどけた声をあげてその男を迎えた。滝澤はこのプラソンの口にした名前に大きな衝撃を与えられた。滝澤は血走った目で、ピスディーを振り返り尋ねる。
「彼知ってる?」
「いいえ。」
「ねえ・・・君にこのグループで他に友達がいないか?」
「え?・・・ええ、いますよ。」
 ピスディーは突然の事でどもりながら応える。
「どういう人?」
「だってどうして?」
「いいから。名前は?・・・うん・・愛称は?」
「二人いてニックネームはジムとオーティス。」
 滝澤の眉毛がぴくりと動いた。
「オーティスは今香港でキャセーパシフィックのスチュワーデスをしています。もう年齢も年齢だしチーフパーサー。彼女だけはチェンマイ大学。滝澤さんこの名前変だと思いません?」
 滝澤は忘れもしないジムと言う名前がピスディーの説明に登場した事で、知りたいことのすべてが出尽くした。
「ああ・・・そうだね。エレベーターのメーカーの名前だ。」
「そう・・・彼女の気性が激しくて上がったり下がったりだから、高校の時先生がそう名前を付けたの。」
「君たちの全員の共通点はアッサンプション高校から一緒って事だね。」
「はい。中学からですけど。それと・・・ジムはスクンビットのマリオットホテルで。」
 滝澤の頭の中で全てが結びついた。恐るべき事象が水面下で動いていたのだ。滝澤に関わることではなく安田に関係する部分だったのだ。
「どうして?」
「ジムって人はどうして今日はここに来ないんだ?だってバンコクにいるんだろ?」
「ええでもここには来られないみたいで・・・。恋人の日本人がこのメンバーをひどく嫌っていて。特にペンとプラソンさんを。それとなぜだかノイを。だからジムが私たちと会うのは、彼に嘘をついて隠れて合わなければいけないくらいなの。今日はその彼と一緒なんですって。でもどうしてですか?」
「・・・・ノイと言う人とあのアメリカ人はいつアメリカに?」
「内々の結婚式が明日あるんです。その結婚式が終わったら・・・私もあまり知らないけど一週間もしないうちに出発するんじゃないかしら。でもどうしてですか?」
「う?うん・・・。後で話す。今はちょっとね・・・。でもあのアムは一体何てことをしでかしているんだ・・・。」
 尻窄みにそうつぶやく。最後の言葉はピスディーには届かなかった。滝澤は今やアムの横に仲むつまじく座ったエドと言う男とを交互に見ながら、全て結びついた信じられない組み合わせのパズルを、自分なりに今一度丹念にチェックしていた。アムもやや恥じらいながらうつむき加減でいるが、エドの到着を当初より知っていたのは歴然だった。滝澤はハッと心に思い当たる節があり、スティーブに目をやる。スティーブはエドに左の瞼を閉じてウインクしている最中だった。憶測が確信に変わりつつあった。
「君はアティックの恋人の日本人と会ったことは?」
「ええ、一度だけ・・・ねえ!今あなた何と言ったの?・・・ア、アティックって言ったわよね?」
 ピスディーは目を丸くして飛びあがって驚いた。そう言うピスディーに全員の視線が一瞬集まる。ピスディーはたたずまいを直ししおらしく両手を体の前で重ね首をうなだれ、ごめんなさいというポーズを愛らしくおどけて見せる。人の注目が解除されたのを見計らってピスディーはせき込んで滝澤に尋ねた。
「どうして?ねえ・・・どうしてその名前を貴方が知っているの?そのアティックと言う名前は学生時代に使っていたもので、本当に昔から知っている親しい人しか使わせないんですよ。正確にはティック。呼びにくいからアを付けて呼ぶ人もいるんですけど。そう言えば前の彼氏もアティックって呼んでいたわ。」
 滝澤は心の中で振り絞りながらつぶやいた。『なんて事だ。』


【第百九十八章】ままならぬ恋愛

 まだ滝澤はその場で起こっている事の異常さに思いを巡らせていた。エドと言う男はアムとひとときも離れず、居間に移ってもべったりと侍って座っている。アメリカ人のスティーブと同様に時折アムの頬に唇を持っていったり、肩を引き寄せたりしながらいちゃついていた。スティーブとノイの方は始めから二人の世界を作り、間接照明のなま暖かい淫靡な雰囲気の中でますますアクセレレートしていた。スティーブの手はノイの胸元から中に差し込まれ、ノイの胸を直接触れて愛撫していた。ノイはその愛撫に完全に力を殺がれたかの様なうつろなまなざしで目を閉じ僅かにあごを突き上げている。頭はスティーブの二の腕に力無くなまめかしく寄りかかり、スティーブの唇を被せられるがままに吸うのがやっとの様子が手に取るようにわかる。まるで魂を抜かれた人間のように、活力が抜き取られていた。タイ経済界を牛耳る中華系タイ人。その中でもエリートグループに属する若い女達のある一つの実体が、滝澤の前に惜しげもなく展開されていた。ペンは半ば酔っぱらい眠りかけているプラソンのそばで、甲斐甲斐しく介護していた。時折思い出したように奇声を発すが、プラソンはピッチの早すぎた酒に完全に潰されていた。滝澤とピスディーはやはり四組あるうちの一組を構成し、ひんやりとする板張りの床に座りソファの座部を背もたれにするように座っていた。ペンは眠ってしまったプラソンを後にして、滝澤達に近づいてきた。滝澤をピスディーと挟むよう対角に座ったペンは、滝澤越しにビニールに入った錠剤をピスディーにわたす。
「はい・・・これ。あんたに渡しておくわ。この人に渡すとあんたが錠剤をいちいち数えないといけないでしょ?自分の知らない所で減っていた日には、洒落にならないものね。」
「まあ・・・なんて事を。要らないっていったでしょ?」
「そんなに強いのこの人?」
「ペンってば!」
 ピスディーはペンを強く諫める。
「滝澤さん貴方一番いい女とつき合っているわよ。」
 語尾を上げながらペンは言った。
「私たちのグループは不良ばかり。ご覧の通りね。でも不良ってね自分たちが不良をやっていると、自分が不良だとの自覚が無くなってよ。いくところまでいくと、それが何ともなく当たり前になるのね。セックスと一緒。」 
 ペンはちらっとピスディーの機嫌を窺いながら続ける。
「最初、初めてセックスするときなんか、気持ちが動転したでしょ?男の人の前で下着を脱がされるとそれだけで恥ずかしくって。それが段々なんて事無くなって来るのね。男の人の前で自らで下着を脱いでも平気になるわ。それどころか下着を脱ぎながら、男の人の表情を観察し挑発すら出来る余裕が出てくるようになるわ。洋服を脱ぐときに主導権を握るのは、見るべき物を持っている女よ。男は黙って見とれるだけ。」
 ペンは手にしていたワイングラスを傾け酒を喉に流す。戻ったグラスが唇から離れる時には、飲みきれていないワインが口元から流れ出てあごを伝う。それを手の甲で荒々しくすくいながら、
「私の事を好きな若い男ね、私の前であれを見せるのを恥ずかしがるの。シャワーからでてくると必ずタオルで巻いてでてくるの。でも彼なんかタオルなんか使った事無いわよ。」
 そういってグラスを完全に寝込んだプラソンに軽く向ける。
「ベッドで彼のシャワーが終わるのを待っている私の所に、何の恥ずかしげも無く近寄って来て私に・・・。」
 そう言ってペンは大きく口を開けて空気をくわえ込む仕草をした。一見気丈に見えたペンにもかなり酔いが回っていた。いくらこう言う話にさばけているといっても、初対面の見知らぬ男にそこまで話をするには、酒の勢いがないと出来ない。ピスディーもそこそこ酒は飲んでいたが、他の人間達に比べるとまだ自分を失わない程度の酔い方で止まっている。
「ねえ・・・スッたら・・・いいわねこう言う男とつき合えて・・・。ねえ、この人セックス上手?」
 ペンのまどろんだ目が悪戯っぽく輝く。
「やめなさいペン。そんなことこんな所で尋ねる物じゃないわよ。」
「あるんでしょ?セックス?」
 ピスディーは絶句していた。
「一週間に何回?」
 ペンは今度滝澤に向かって体を押しつけながら聞いてきた。ペンは右手で滝澤の頬を撫で、耳を滝澤の胸元に押し当て滝澤の局部に触った。滝澤は至近距離のペンの口元から強いアルコールの刺激臭を嗅ぎ取った。滝澤はピスディーを振り返る。
「マイアウ(嫌だって)。ペン!駄目ってば。」
「いいじゃない。少しだけ。」
 ペンはピスディーの言葉を無視して滝澤の物をズボンの上から揉みしだいていた。
「駄目っていったでしょ。ちょっと、いい加減にして頂戴。ペン!」
 ピスディーの声が真剣みを帯びた。と共に物理的な力でペンを自分と対角に押しやろうとする。もとより力のないか細い女同士の押し合いは、柳の枝と枝のふれあいのごとき様相だった。
「あーら全くスッったら・・・。ムキになっちゃって。可愛いのね。」
 そう言いながら一時は押しやられたペンは再び戻ってきて、滝澤に寄り添ってくる。ペンの手はズボンのチャックにかけられ、ジッパーを引き下ろしにかかる。ペンのろれつがまわらない言葉に、自分のやっている事が後で友達に対して反省すべき事をやっているとわからない状況だとの推測を確かなものにする。
「駄目!」
 ピスディーは白魚の様な細く長い美しい指でペンの手首を取り上げジッパーから離そうとする。ペンはそう言うピスディーの魂の込められている拒絶の力を、介する風もなく目を半開きにして、頭と首の動きが定まらない。ペンは再びその強いアルコールの刺激臭の吐息と共に滝澤の唇に自分の唇を重ねてきた。
「ペン、いい加減にしなさい。本当に怒るわよ、私。」
 今度はピスディーは真剣にペンを叱責した。そのトーンにペンはやや驚いたように顔を滝澤から話す。ペンとピスディーの視線が一瞬結びついた。
「スッ・・・いい子ちゃんぶってばかりじゃいけないわよ。貴方は昔からいつもそうなの。」
 ペンが反撃に出た。ピスディーの表情が穏やかならぬそれに翳る。
「あんたこの前ここに来たとき、相当酔っぱらってここに泊まって帰ったじゃない。」
 ピスディーの顔に険しい表情が浮かぶ。そしてすぐに滝澤の方を窺う。
「あの時男と一緒に寝たんじゃない?」
 傍観者でさほど目の前でおきている友達同士の戯れを、真剣にとらえていなかった滝澤に、おびただしい量の電流が流れた。滝澤の思考回路はその流れの大きさに、不意を討たれ完全に麻痺した。
「ヤーユング、ポーレーウ!(大きなお世話、もう十分)」
 ピスディーは至極真剣な面もちでペンに命令する。それ以上ペンが話をする事をひどく迷惑で恐れるかのように眉間に皺を寄せ、そう言ったあとは目を床に伏せる。
「ど・・・どう言う事かな?」
 今度は滝澤がピスディーとペンの両者に目配せをして尋ねる。滝澤の思考は完全に追いついてはおらず、そう言うごく平凡で当たり障りのない質問でしか問う事が出来なかったのだ。
「2週間ほど前だったかしら。スッがストックホルムに会議でいったでしょ?」
「ペン!!」
 ピスディーは感泣極まる抜き差しならない表情をしていた。ペンは話をやめて滝澤に再び唇を寄せて来て重ねる。酔った感触の中でも、自分がピスディーに対してのっぴきならない事を言っている事が、ペンにもわかったかわからずか。ピスディーの泣き声が背後で聞こえだす。ペンはお構いなしに滝澤を抱き締め、舌を滝澤の口の中に入れる。先ほどと同じように右手は滝澤の局部にあてがわれ、右手はジッパーを分け入り中に進入してきていた。ピスディーはそれを止める事は無かった。今やペンの思い通りに事が進んでいた。おもむろに滝澤は力強くペンの両肩を握り、今度は男の力で体を自分から遠ざけた。
「君の言うとおりだ。本当に君たちは自分が不良になっていることを、気づいていないようだ。人間年をとれば青臭い事ばかりじゃ生きていけない。でもな、越えてはいけない一線ってものがある。それをやると退廃と厭世しか残されていないような。思いのままに快楽を求めて流されてゆくのは、人間の本性に沿い、人間らしくてそれはそれでいいんだけど。」
「誰が貴方を相手をしようって言ってるのか知ってるの?この私よ・・・。」
 ペンは真剣に滝澤のしていることの再確認を催促する。
「君からこういうことをされたいって望む男が、このクルンテープの空の下に掃いて捨てるほどいるだろうってのは簡単に想像がつくさ。綺麗だもんな。認めるよ。君を含めてちょっと異常なくらい美人が集まっているよ、君たちの仲間は。でも僕はピスディーとつき合っているんだ。君とじゃない。」
「ピスディーだって適当に遊んでいるわよ。」
 ピスディーひたすらむせび泣いていた。
「そりゃ君たちの世界に入れば感覚がおかしくなるだろうぜ。こんな場所で酒が入れば平常の自分を維持しておくのが至難の業だ。この一夜が狂って妙竹林になってしまう・・・いや取り返しのつかない事になってしまう事だって十分あり得るだろう。」
 そう言いながら滝澤は胸の鼓動を感じていた。ピスディーが他の男と一夜を共にしたと言うショッキングなペンの発言は、それがどういう事か確かめてからでないと何とも言えないが、大きなインパクトを滝澤に与えボディーブローのようにじわじわと効き始めていた。と同時に自分自身を振り返り、そんなピスディーの行為を致し方ない事と必死で擁護しようともする。ピスディーとステディーになってから、自分はギブと一夜を明かし体を交えた。その傍らでトッブに不思議な恋心を抱いている。常識ではあってはいけない事が実際には自分の身にも及んでいたのだ。
「君がやっていること・・・プラソンさんがあそこに居るって言うのに、僕の唇を吸う。彼が眠りから覚めたらどういう事になる?目を覚まさないって計算が君の中で成り立っているから、それに周りのだれも明日の朝彼にたれ込まないって安心しているからこそ、そう言うことが平気で出来るんだろ?」
「さあどうでしょう?あの人が私と貴方がここで抱き合っている・・・たとえば貴方が裸で私の上で動いていたとしても、彼は怒るかしら?焼き餅を焼くかしら?そうであれば上出来ね。自分が毎日他の所でやっている事を考えれば、きっと怒る資格なんか無いって彼知っているわよ。むしろ私にそう言う事をやらせて彼と同類にすることで心の安らぎを覚えるくらいじゃなくって?」
 十代二十代の頃の初々しい恋愛。そこで結びついて一生の伴侶となり、一生を一人の人間だけに集中し、愛し人生を送るパターンがある。人はそれをごく普通の恋愛の形だと称したがる。がしかし実際人間はそれ程純粋ではいられない。むしろそう言うパターンの方が稀有だ。年を経るに連れ、恥じらいが無くなり、何事も慣れと言う悪魔に取り憑かれる。人間はそれ以上の欲望を求めて彷徨う。体を交える事が俗に言う昼間の仕事をする人間達にとってすら、特別な事では無くなってくる時がくる。時には夜の仕事の女性より大胆に快楽を求めるものだ。それが仕事ではないだけに、強制では無いだけに、そして金銭が絡まないだけに、その欲望を求める純粋な欲求は奥深い。金銭や他のしがらみから拘束されない分、その欲望のたちは自由に移ろい奔放で激しく止まるところをしらない。
「それじゃ君も彼も本当にセックスの快楽だけを求めてお互いを必要として生きている事になる。その場限りの快楽を追い求めて。そこに彼のこれだけの金が背景にあって、好きな物を何不自由なく手に入れる事が出来る。最高じゃないか。さっき君はプラソンさんをセックスだけと吐き捨てたろ?でもそれが無いとやっていけないのは彼だけじゃない。」
「上辺だけを見るとそう見えるかも知れないわね。」
 滝澤に何がわかるかと言う見下した表情でふてぶてしくペンは言う。
「わかってる。君のジレンマは。にっちもさっちも行かないんだろう?」
ペンの表情が余裕のあるそれから一変する。
「さっき言った様にこのアパート誰も入っていない。通貨危機が起きて経済がダメージを受けて2年・・・このアパートの借金もまだ返済できていない。それに追い打ちをかけるようにテナントが逃げてゆく。このビルをあの97年7月2日以前に完成させていただけでも、プラソンさんの先見の明は大ありだ。」
 何を言い出すのかとの風情でペンが滝澤の次の言葉を黙って観察していた。滝澤の心中では、そう言うペンの目の光から心なしか、やはりプラソンと同様堅気ではない人間の放つにおいを嗅ぎ取っていた。時としてプラソンの仲間として手下・部下として、修羅場を共に潜ってきているに違いないペンには、確かに一般の女性達とは何か異なる凄みのような物が宿り迫っていた。
朽ち果てたビル「下手すりゃ途中で止まったクレーンを屋上階に置き去りで、鉄筋は雨風に野ざらしで錆付いていたかも知れないんだ。部屋から外を見て見ろ、そんな惨たらしい残骸はバンコクではあちこちに散らばっている・・・・。」
 滝澤はぞんざいに窓の外に手を投げて示す。
「僕が思うにね・・・不動産で華やかりし頃は、君たちは途方もない金銭を手にした筈だ。君とプラソンさんが籍を入れないのは、所得隠し・・・かな。景気が悪くなってからは、借金の追っ手を逃れるために君名義の口座に金をシフトさせる。彼の会社は借金で首が回らなくても、私腹はたっぷりと君の名前の下の口座に溜め込んでいる。君たちが香港にマンションを買って余暇を過ごすのは、ひょっとしてバンコクにいると命さえも危ういくらい借金の取り立てが厳しかったからじゃないかな?」
「よくご存じね、そんな所まで。何を証にそんな推測を?」 
 ペンは狡猾な表情で滝澤に尋ねる。誰が見ても整った顔立ちをしているペンは、たとえそれが狡猾な表情ですら、その場の雰囲気には美しくマッチしていた。この館の主にもっとも似つかわしい雰囲気装飾が施され漂っていた。
「この家の造りがもうそれを十分に語っている。見知らぬ人間が踏み込んで来たときに、それらの人間はこの家では自由に動き回れない。ピスディー? ・・・なんだかこの家は落ち着かないと思った事はないか?」
「突然言われても・・・。」
 泣きやんだばかりのピスディーは弱々しく滝澤の質問に答えた。
「ドアに取っ手がない。そしてドアの形がどこにもない。人は壁になっているドアを押すようにしてその出口を見いだす。手垢だけが頼りだ。それにあのジグザグの鏡。巧妙に人の方向感覚を欺くアクセントだ。僕自身がなぜか居心地が悪いと感じたのが、どうしてなのかって最初から不思議に思っていた。そう言う仕掛けが至る所にしてあるのが分かった。裏口になぜエレベーターが必要か?一般的に思うだろう?メイドが正面の玄関を通らせないための、勝手口のエレベーターだと。でも違う。あのドアは、何かから逃げるための避難通路なんだ。外に出る通路で扉がどこにあるかわからない。そんな勝手口があるか?扉がどの羽目板かを知っている人間だけが使える勝手口。あの豪勢な台所と正面玄関との間に有る物は?・・・居間そして食堂。即ちここと食堂にいるときの誰かからの乱入を交わす逃げ口って訳だね。それじゃ寝ている時は?3つある寝室で君たちの寝室は一番奥の部屋。さらに君たちの寝室の窓からは、外の水の張ってあるベランダを通じて、やはりあの裏の通路につながる部屋に回り込んで行ける設計になっていないか?もっとも下で僕が車を預けた男も、ただの守衛じゃない。ボディーガードだ。それにこの誰も入っていない筈のビルにどうして人間の気配がする?ボディーガードのたまり場が有るんだ。それの守備をかいくぐって部屋まで到達する勢力となると半端じゃない。物理的力・・・恐らくは武器も十分備えている組織だけがここにあがって来れる。」
「で?それはどういう勢力なの?」
 ペンは試すように滝澤に問うた。
「警察。」
「そうね・・・。続けて。」
 ペンは静かに滝澤を見据えた。
「ピスディー?君はプラソンさんの小鼻に傷があるのを見つけていた?あの傷は鋭利な刃物で切り裂かれた傷だ。プラソンさんがそう言う立ち回りとなる場所に存在したことを証明している。堅気の世界ではお目にかかれない場面だ。それだけ借金の取り立ては厳しかったんだろう。」
「過去形?」
 ピスディーがようやく滝澤の解説に言葉を挟む。
「そう。もしそうでなければプラソンさんもペンもこんな所に帰ってこれはしない。香港なりに高飛びしたままだ。」
「そうだわね。」
 ピスディーは神妙な顔をしてつぶやく。滝澤はペンに振り向いて、
「そう言う環境で君が愛する人との恋愛を何不自由なく送れてきているとは思ってなんかいないよ。」
 滝澤は自分の真意の半分を表明したに過ぎなかった。本来は二倍弱も年のいった男としかも外見的には何の魅力もないように見える男、さらにやくざな生活パターンの男と一緒になってここにいる事自体が不自然だ。学校を卒業する時は他人と同じくうら若き美しい乙女であったに違いない彼女が、二十歳代の身空で初対面の男の乳頭をつまみ、バイアグラを渡し、食事の席で自分の男をセックスだけとなじる。そこまでアクセレレートするまでには、多くの経験を積んで来なければならない。ペンほどの美貌を誇る女性なら、多くの男性が言い寄って来ているに違いないかった。プラソンの不義に腹をたてある時は、酒を浴びるように飲みそのうさをはらそうとする。その延長線上で言い寄ってくる若い見た目のいい男と隠れて情事を重ねる事もあったかも知れない。どこまでもプラソンによって堕落させられているのだと滝澤は考えた。しかし滝澤にとっては堕落と映るその姿も当の本人には全くそう感じてはいない。ペンのピスディーに遜色ない色の白さと頬の痩け方と痩せ方を見ていると、薬の常習を疑いたくもなる、そしておそらくはそれがあたっているだろうと滝澤は内心確信したりもしていた。
「滝澤さん・・・でもね私だけじゃ無いわよ。多かれ少なかれ皆そう言う宿命は背負っててよ・・・。私だけが表面だってそう言う環境におかれている様に見えるけど、実際は違うの。」
 ペンは伏し目がちで人差し指で床になにやら文字を描きながら言った。
「滝澤さん私たちの様な人種をどう分析している?」
 そう言うペンにピスディーが答える。
「わかりますか?滝澤さん。前もペンとこの話題で話しをしたんだけど。私たちの人種って?」
「ああ何とか。金に困らない家庭で育った、大学なんて誰もおいそれとはいけない環境で一流の大学を卒業した。下手をすればMBAなども取得している。そして肌の白い中華系のタイ人。加えて・・・・誰もが認める美しさ。華やかで誰からも羨まれる階層の女性達だと思われる。しかし実際はそうじゃない。僕は・・・ペンを見ていて、あのアムを見ていてノイを見ていて、そしてさっきペンがちょっと言及した君の行為を考えて本当にそう思う。」
「ねえ滝澤さん、アムについて何を知っているの?」
 ピスディーはそう滝澤にいって今度は視線をペンに向け、
「滝澤さんね、アティックって名前を知っていたの。」
「え?」
 ペンの表情に緊張が駆け抜けた。


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